<p>「どうやってハッピーに生きていくか」というのが仏教です。</p> <p>これは大変難しい問題ですが、仏教の開祖である釈尊は、なんとこれに対して見事な解決法を編み出したのです。そして周りの人たちが「おおぅ、釈尊スゲエ!」と思い、やり方を教えてもらって真似したり改良していったりして成立したのが仏教です。なので、キリスト教やイスラム教と違い、絶対的で超越的な神様が「こうやって生きていくのが正解じゃぞ」と教えてくれたわけではなく、「オレはこうやったらハッピーになれたぜ!」「みんなも真似してみれば!?」というスタンスです。なので、初期の仏教における釈尊は何もかも知ってる超人的なスゲエやつではなく、憧れの先輩くらいのポジションでした。ただし、これが後世どんどんと神格化されていきます。</p> <p>では、釈尊はどうやって「世の中でハッピーに生きていく」ことを成し遂げたのでしょうか?<br/> 彼のアイデアはシンプルでした。まずは現状認識から始めます。なぜ、この世はロクでもないのか?それは自分の思い通りにならないからです。プリンが食べたいのにお金がない。好きな女の子がいるのに見向きもされない。張り切って仕事しようとしたら嫌な上司に邪魔される。そして、きわめつけは死にたくないのに死んでします。</p> <p>経済情況も異性や上司との関係もあなたの命も、この世のものは何もかも思うようにコントロールできず、「なんでうまくいかねえんだよ」!と不満が溜まっていきます。この「思うようにならない」ことを仏教では「苦」と言います。そして、「あれもこれも思うようにならねえぜ」というのもを「一切皆苦」と言います。これがまず仏教の現状認識です。</p> <p>さて、釈尊はいかにしてこの問題を解決しえたのか?<br/> ここで釈尊は過激な手段を取ります。彼は考えました。なぜ私たちはうまくいかなかった時に不満を感じるのか?「**したいのに、**できない」から私たちは不満を感じるのです。この「**したい」という気持ちが欲望であり「煩悩」です。</p> <p>じゃあどうすればいいのか?答えは簡単ですね。「**したい」と思わなければ良いのです。何もかも「どうでもいい」と思ってしまえば良いのです。「プリンとかどうでもいい」「女とかどうでもいい」「仕事とかどうでもいい」「生きるとかマジどうでもいい」。この境地に達すれば何もかも「どうでもいい」ので、何かうまくいかなくっても「どうでもいい」。よって、不満が溜まることもなく、毎日楽しくヘラヘラしていられるのです。これが最初期の仏教の基本的なアイデアです。</p> <p>と、言うと、「おいおい、なんかロクでもねえなあ」と思われる方もいるかもしれません。<br/> では、カッコ良く言い直しましょうか。「煩悩を断ち切り」「執着を離れる」のです。どうです?ほら、カッコイイでしょ?でも、要するに「どうでもいい」なのです。この境地を仏教では「悟り」や「解脱」と言います。このように仏教は最終的には善も悪も否定します。仏教は巷で思われてるような生っちょろい道徳宗教ではありません。</p> <p>本能的な欲求は「生きる」ためのものですから、これを消滅させるとなると、「生きたくない」という思いを心身に刻み込むことになります。ただし、「死にたい」となると、これは煩悩ですから、あくまで「生きたくない」です。より正確には「生きるのなんかどうでもいいけど、死にたいわけではない」くらいの感覚でしょうか。つまり、「何もかもどうでもいい」の境地です。</p> <p>ここで釈尊のアイデアとして非常に重要な「無情」についても説明しておきましょう。<br/> 無情は「ほぼ全てのものは変化し続けて永遠には存続しない」というアイデアです。自分の身体だって今は健康でもそのうちどこか壊れて死にます。精神に関しても、大好きな恋人のこともそのうち嫌いになるかもしれません。なので、ここから「そのうち消えちゃうものにこだわるなんて馬鹿らしくね?」「どうでもよよくね?」という思考法が導かれます。大抵のものは「無情」だから「どうでもいい」のです。</p> <p>しかし、この境地に達してしまうと通常に社会生活は送れなくなり、社会不適合者になってしまうことは確かです。実際に釈尊も最初は飢えて死ぬ気満々だったようです。他人に説法をする気も全然ありませんでした。悟りをひらいた後は「オレの悟った真理スゲエ」と一人でエヘエヘして49日間も菩提樹の周りをウロチョロしていたのです。</p> <p>この頃の彼は、「他のヤツに教えてやってもー。どうせ誰も理解できねえしー。疲れるだけだしー」みたいなことを言っています。驚く程やる気がありません。伝説によれば、バラモン教の神であるブラフマーが釈尊の下へ直々にやってきて、「そんなこと言わずに説いてやって下さいよ。たまには分かるヤツがいるかもしれませんから」とお願いしたことになっています(これを梵天勧請といいます)</p> <p>「でも、仏教には慈悲行があるじゃないか、慈悲ってことは他人のことを思いやってるわけで、他人はどうでも良くないんじゃ?」と思われる方もいるでしょうが、イイことをすることによって「自分の心を乱さない」ためのものであり、本質的には「自分のため」なのだそうです。</p> <p>また、この頃、巷で広まっていた民間説法をコピーして、「釈尊は前世でこんなことやってたんだぞ」という物語が作られました。<br/> たとえば、釈尊は昔、ウサギに生まれたことがあります。その時、ウサギの彼は「乞うてくる人がいたら何でもあげよう」と善行を誓いました。すると、老人が現れて何か食べるものをくれ、と言ってきます。これに応えてウサギは火の中に飛び込み、「ウオオー、オレを食ってくれ、ウギャアアア!」といって焼け死んだのです。これは要するに「釈尊は前世もスゴイんだなあ」という話しです。とまあ、これは普通に考えればファンタジーなのですが、これが釈尊の差別化につながります。</p>
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