人生を何に費やすか決めかねるまま人生をゆき過ごす。

bardiche-side-b:

kondot:

nemoi:

n-enot:

toDoリストに書き出すような行動願望が際限なく溢れる。目的はバラバラでまとまらず、何が重要で何を切り捨てるかの判断は曖昧なまま。

人生が四散する。

“不器用貧乏”、”何もかも中途半端”。 自分で自分の限界を決めたくない、同時にそれは自分の限界を直視したくないということ。何1つのことも成せずに”何もかも中途半端”に終わる。
ところで、”何かを成す”とはどういうことか。何か意義のある成果を出力することか。それでもまだだいぶ曖昧だけど、意義やら意味づけやら評価や肯定がほしいのではないか。
そして、”なりたい自分”を夢見て、現実に否定されることを恐れるwanna beな人だろう。望むばかりで、成果を出すだけの仕事は出来ていないわけだから。

人生を何に費やすか決めかねるまま人生をゆき過ごす。

でもそれを決めるのはとても困難だと思う。
可能なら、決定が社会的に要求される前に十分な経験が欲しかった。
人生を何に費やすかって、別に就職とか労働のことだけでなく、その他の趣味的活動についても、だけど。

仕事の意義・自己実現・その他何もかもを否定して、無意義な世界に絶望する。
趣味など所詮片手間の楽しみで、意義のありようが無いことは前提からして明らか。

意義とかその辺の話だと世界対自分みたいなスケールで考えてしまいがちだけど、セカイ系や歴史の偉人みたいな話にしてしまうと凡人には辛い。そんな頑張れない。
身近な人、自分が参加している集団など、そのくらいのスケールで意義を考えるなら意味がありそうだけど、どうも私としては実感がわかない。