文学が社会人から軽視されている理由は、きっと文学にもあるのだろう。柄谷行人じゃないけれど、今や文学は、人生いかに生きるべきかという倫理的な問題を、おろそかにしている。もっといえば、どう生きたらいいかなんて考えない人間や、そんなこといわれたって困っちゃうような人間が文学をやっている。社会の流動性についていくのが精一杯だとか、価値観の多様化した現代に倫理などナンセンスだとか、文学は多様に読まれるべきもので、教条的にこれが正しいなんて思って書いてはいけない、なんていうのだって、結局は責任回避だ。人はどうあれ自分はこう思うと、あきらめずに考えていくのが文学じゃないか。「人生いかに生きるべきか」とは「人生はこう生きるべきだ」とは全然違うのである。「生きるべきだ」は固定された解答にすぎないが、「生きるべきか」は問いである。問いにはもともと無限の多様性がある。それを問わないで、そういう発想さえなくて、ただ書けるから書いている文学者ばっかりである。
— <a href="http://www.ficciones.jp/shimokitazawa_nikki.html" target="_blank">藤谷治の読書日記</a> (via <a href="http://yasunao.tumblr.com/" class="tumblr_blog" target="_blank">yasunao</a>)